●質問
なにが淋しいということでもなく、ただ漠然とした淋しさがあります。彼氏と一緒にいてもなぜか淋しいです。彼はすごく優しいしいい人なのに。
漠然とした淋しさって、どうしたら消えてなくなってくれるのですか?
●お答え
前項では、人生がもつ「選べなさ」を認め受け入れることで、淋しさから解放されると説きました。がしかし、誰もがそうできるわけではないですよね、ということで、ではどうすれな、人生がもつ選べなさを受容できるようになるのか? が、本項のお題です。
ちょっとむずかしい言い方をすれば、意識と感覚とがバランスよく拮抗するようになれば、淋しさから解放される――かの哲学者はこう言います。
意識とは、言語能力のことです。意識がないときは言葉が出てこないのだから、意識=言葉です。
対して、感覚とは、言葉にならないことです。たとえばいま、あなたが暑いと思っているとしましょうか。その暑いという感覚って、究極的にはそのすべてを言葉にできないですよね? だから、寒いと思っているあなたの隣にいる人と、エアコンの温度をめぐってケンカになるわけでしょう? あなたが持っている暑いという感覚を「すべて」言葉にできれば、理路整然と暑さを相手に説得できて、ケンカにならないのに。完全に言葉にできないことと、言葉にできる部分との2つを、わたしたちは常に持っているということです。
その言葉で言い表せることと、言葉で言い表せないこととが、ひとりの人の中でうまくバランスをとったとき、はじめて、人は淋しさから解放される――かの哲学者はこう言います。
言い換えるなら、人生には、ある瞬間、偶然、かつ奇跡的にも、自分の過去・現在・未来を一瞬にしてば~っと見通せるときがあります。このとき、人は、意識と感覚とのバランスがとれているのです。
ポイントは、「今」を「感じる」ことができるかどうかです。
漠然とした淋しさを抱いている人って、過去に心を繋がれている人です。言語の世界に心を奪われている人です。言葉とはつねに「過去にそう思った」ということだからです。
そうじゃなくて、今を感じることで、人はある瞬間、偶然、かつ奇跡的にも、自分の過去・現在・未来を一瞬にしてば~っと見通せるようになります。
今とは、感覚で感じるものです。感じるというのは常に今で、考える(=言葉の世界)とは、常に過去だから。
「今」を感じるようにすれば、人はいとも簡単に淋しさから解放されます。そのためには、五感をフル活用することです。
公園に行って風を感じるでもいい。美味しい料理を食べに行く、でもいい。旅行に行って、その土地の人と触れあうのでもいい。とにかく、過去のことを考えすぎなその脳を、その心を、「今」にもっていってあげることです。
そうすれば、少しずつ少しずつ、心が過去から離れてくれて、その結果、淋しさが嘘みたいに消えてくれます。
文中に書いた「かの哲学者」とは、キルケゴールのことです。彼は、淋しさや怒りなど、絶望を哲学してその解消法を身体を張って考えた最初の人です。引きこもりやプチ鬱に悩まされつつ、その解決法を考え出した最初の人です。
よかったら彼の本を読んでみてください。
※参考 キルケゴール・鈴木佑丞訳(2017)『死に至る病』講談社